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c;古典時代(Classsical Age) 後篇
ペルシア戦争が終結したのち、ギリシアはまた内部抗争に突入します。 また、というのは、ペルシア戦争以前から、アテナイとスパルタの二つのポリスは覇権をめぐって幾度も戦っているからです。B.C.449年の「カリアスの和約」ののち、30年間の和約を両者が結び、平和維持に努力します。しかし、431年には三十年以上継続することになる、ギリシア内部でポリス同士によるペロポネソス戦争が勃発します。 アテナイは、ペルシア戦争を経験し、エーゲ海全域を網羅する海上同盟を結成。表向きには対ペルシア帝国とされた「デロス同盟」と呼ばれるこれは、しかし、「玉ねぎ頭のゼウス」とやっかまれたほどの手腕を発揮したペリクレスによって「アテナイのための同盟」という性格を前面にあらわす。同盟のための参加ポリス拠出資金を、アテナイ修復に流用し、同盟脱退ポリスへの武力制裁を行ったりする。 スパルタは、B.C.6世紀頃には確立していた「ペロポネソス同盟」によって、ペロポネソス半島内のポリス群を束ねていた。この同盟は、元来、スパルタと各ポリスが一個一個盟約を結んだものであり、軍事行動を起こすには過半数ポリスの賛意を得なければならぬとはいえ、結束力は強かった。 口火を切ったのは、デロス同盟側のコルキュラとペロポネソス同盟側のコリントスによる、エピダムノス問題にアテナイが介入したことにある。 面白いのは、当事者のコルキュラは、イオニア海に浮かぶ島に在り、エピダムノスに至っては、バルカン半島西部の辺境だったということ。そんな所が着火点で、大戦が勃発するのですから。 ペロポネソス同盟軍のアッティカ半島侵攻に対し、アテナイは陸戦を避け籠城する。そして、海軍による海上輸送によって、ペロポネソス本土の各ポリスを直接攻撃するという奇策に打って出る。確かに、海軍は優勢だったが、籠城した市内では人口急増による公衆衛生の悪化のためか、疫病が発生し、籠城提案者のペリクレスも発病し死亡する。 一進一退の中、何度か休戦を結ぶが、根本的な解決にはならなかった。ペロポネソスには、マケドニアが助力し、さらにはペルシア帝国も資金援助に乗り出す。 アテナイも、ペリクレス死後、政権の迷走が続いていた。衆愚政治と呼ばれる状態に入り、同盟全体を束ねる求心力を持ち得なかったようだ。 結局、三十年に及んだこの戦争は、アテナイの敗北に終わる。 しかし、スパルタは勝利こそしたが、それは覇権を意味しなかった。そののち、テーバイと戦争を起こすのです。 このように、B.C.4世紀に入ると戦争によってギリシアは疲弊し、ポリス内部からの崩壊が始まります。 そして、ギリシアの統合はやがて来るマケドニア…大王アレクサンドロスによってなされるのです。 c;古典時代(Classsical Age) 中篇
アテナイとスパルタの勃興については、前回さらりとやりましたので、今回は、ギリシア世界とオリエント世界の衝突についてでございます。 世に言う 「ペルシア戦争」 と、ギリシア本土で展開された 「ペルシア戦役」 でございます。 B.C.6世紀末、ペルシア帝国はオリエント世界を統一し、小アジアのエーゲ海沿岸にあったギリシア植民都市をも支配するようになりました。これにギリシア植民都市は反発し、B.C.499年のミレトスによる帝国への反乱に扇動されるかたちで、小アジア南西部のイオニア地方を焦点に反乱勢力が拡大することになりました。 当初、ギリシアの最有力ポリス・スパルタに対してミレトスから救援要請が出されました。しかし、スパルタはこれを拒否。 アテナイが海上戦力をわずかながら支援する。反乱軍は、一時は、のちのビザンティウムあたりを占拠、キプロス島も反乱に参加するなど、B.C.494年に帝国に鎮圧されるまで、およそ5年間を戦いぬきました。 従来、帝国はギリシア全域に対しても、臣従を迫っており、アテナイなどからしてみれば、帝国の強硬的な対外姿勢は「自由」や「民主政」への挑戦であるとも捉えていたようです。帝国は、イオニアでの反乱への報復もあり、合わせて三度にもわたる遠征軍を送ることを決定します。 もちろん、面子を潰されたからという理由だけではなく、経済的に繁栄するエーゲ海域の確保もあったのです。 アテナイに対して二万程度の兵力で遠征軍(第一次)が派遣され、アテナイは一万の兵力で単独で戦い、これを捌いた。 第二次遠征軍は、帝王クセルクセス1世自身が首都スーサから、小アジアのサルディスへと親臨し、兵力も前回をはるかに超える20万が投入される(これは、私の推測です。ヘロドトスによれば500万以上いたというけれど、さすがにそれは誇張しすぎでしょうねぇ。今に至るも、研究者の間で結論の出ない数字です)。 ジェラルド・バトラー主演の映画『300』の題材である、『テルモピュライの玉砕』が有名なエピソードでしょう。あれはあくまで映画ですが、二度目のギリシア対ペルシアの戦いで、スパルタの部隊が他のポリス部隊を撤退させるために玉砕したのは史実で、日本人好みのエピソードといえるでしょう。 対するポリス群は、日和見や帝国への臣従を選ぶことも多く、アテナイやスパルタなどは残る有力ポリスを糾合し連合軍を結成する。 結局、この戦いでは、都市アテナイもペルシア軍に占領され、連合軍はいまだ勢力下にあるペロポネソス半島と、いまや帝国に占領されたアテナイを含むアッティカ半島との間とをつなぐコリントス地峡を防衛線にすると決定する。 「帝国艦隊と連合艦隊とで、海戦に持ち込めばなんとかなる!」と考えたアテナイ海軍のテミストクレスは、コリントスの沖合にあるサラミス島に艦隊を展開、サラミス海での決戦を主張。 しかし他の部隊に反対され、「ならば!」と帝国艦隊に、連合艦隊が集結している旨を密告する。半ば強制的に、連合艦隊をサラミスの海戦に引きずり込む。 勝てばよし、負けても密告していたことでアテナイだけは助かるようにと計画する。…この辺に、のちのアテナイの腹黒ぶりが見え隠れします。 艦艇数で大きく差があったけれど、勝手知ったるサラミス海上での戦いのこと、連合艦隊は海の利を活かしてなんとか勝利。 帝王クセルクセス1世は、帝国本土でのバビロニア反乱もあり、ギリシアから撤退する。 その翌年、第三次遠征軍が派遣されるも、プラタイアの戦い(B.C.479年)で連合軍に敗退。連合軍は、逆に小アジアに攻め込み、イオニアで勝利する。 ここに至ってポリス群は、帝国の再度の大規模な遠征を警戒し、恒久的な同盟を結成します。 二百ものポリスが加盟し、エーゲ海デロス島に本部を置いた「デロス同盟」です。アテナイが主導し、軍事力や資金を運用することに。 これに対し、アテナイの影響力増大を危険視したスパルタは、従来のペロポネソス半島での「ペロポネソス同盟」の強化を図る。 喉元過ぎればなんとやら、ギリシアの内輪もめは、この頃には再燃されたようです。 さて、帝国との大規模な戦闘は、プラタイアの戦いを最後としましたが、そののちも小競り合いは続けられ、戦争状態は続行されておりました。 最終的にはB.C.449年の「カリアスの和約」と通称される条約によってイオニア地方の植民都市の独立保障と、ポリス群と帝国との勢力境界線が定められ和平が結ばれたのでございます。 イオニア地方の反乱決起から、プラタイアの戦いまでを「ペルシア戦役」。イオニア反乱からカリアス和約までを、「ペルシア戦争」と捉えてお話してみました。 c;古典時代(Classsical Age) 前篇
前回、ポリスは早くに王政から貴族政へと移行した、と書きました。 そう、ポリスの多くは、最初は王政を取っていました。古代日本を含む東洋諸地域は、基本的に王政を選択する期間が長うございました。 しかし、ギリシアはポリス成立後、100年をかけて王政を期間付きのアルコン(≒執政官)に、ついで貴族政へとゆるやかに移行させたのです。 クーデターによって急激に変わったわけではない。これは、かれらが元来持っていたエーゲ海の民としての気質によるものだったのでしょうか。 この、古典時代(B.C.500年~B.C.338年)には、ポリスは200以上存在し、しかもそれは大別して二つの類型がありました。 Sparta(スパルタ)と Athenae(アテナイ)の二つです。 Sparta: これは、主として征服によって成立したポリスであり、「征服型ポリス」と呼べます。 彼らのポリス自体が内陸部にあったせいか、ペロポネソス半島に雄飛します。 周辺先住民を一種の従属民とし、奴隷として、農地耕作に従事させる。戦争には兵士供出の義務を有させる。 この型のポリスは、商業への従事を禁止させ、金銀貨の貨幣使用も禁止。土地は市民に平等に配分させる。それらすべては、市民の徹底した平等の実現であり、貧富のない極端な融和政策でありました。 子どもの頃から軍事教練に参加し、軍事力維持に最大限の努力が払われる。贅沢を排斥し、苦労を厭わず、社会のために命令服従を求める…。これは、リュクルボスという人物によってポリスのとるべき体制とされました。 では、一方のアテナイはいかがであったのか。 Athenae: スパルタとは逆転して、「集住型ポリス」です。アテナイは、貴族政からさらに民主政へ移行。 B.C.594年のソロンによる改革によって、当時進行していた農民の隷属身分への転落が解消されました。 これは 「(彼らの) ポリスは、自由民によって構成されるべき」 という理念によるものであり、アテナイには市民と奴隷との間には明確な線引きがあったのです。B.C.5世紀後半のペリクレス時代には、アテナイは黄金時代を迎え、市民は経済的な面はさておき政治的には平等権を有すようになっておりました。しかし、過度に「自由」を意識し、こののちの時代には衆愚政治と酷評される迷走ぶりをみせていきます。 スパルタと異なり、商業を重んじ、ポリス自体が沿岸部に存在していたせいか海外への進出を志向し、貿易によって富を得、まさしくアテナイ海上連合とでもいうべき性格をもっておりました。 相容れない、アテナイとスパルタは、それぞれデロス同盟(アテナイを盟主)、ペロポネソス同盟(スパルタを盟主)をポリス群に示し、やがてポリスを二分する勢力を形成していくのでございます。 …個人的に、どちらの方が、より人々にとって幸せな暮らしを提示したのか、という興味はあります。 と申しますのも、アテナイの民主政は、現在の民主主義のはるかな祖のひとつと考えられております。ひとりの人間が暮らしていく上で、政治の安定やそれに参加しうるかどうかは、今に至るも決定的な解こそ出ておりませんが、ひとつの指標となっておりますでしょう? …哲学者プラトンは、理想的な政体は、哲学者によるのだとの見解を述べております。 しかし、さすがはプラトン。 「それは無理だからねぇ~」 と言わんばかりに、『法律』という著作の中で、アテナイの偏った民主政はダメ、オリエントの極端な君主政もダメ、様々な政体の中から長所を取り出し混交を試みることによって「良き国家」を創り上げることを提唱します。 その彼にして、とりあえずの模範的な例は、なんとスパルタであるという。 スパルタは、実は二人の王による王政ではある。…が、その王自体が有力貴族層の構成員であり、王権のバランスを取るために長老会や監督官という制度を自発的に設置し、民主政要素すら取り入れている、と。 …これに近いことを成し遂げたのが、後世のローマ共和政末期のユリウス・カエサルや彼の後継者オクタヴィアヌス、クラウディウスたちではなかったでしょうか。 アテネ市民であるプラトンが『法律』の中で述べたことは、やがてくるアテナイ没落によって証明されるのでございます。 ⅱ;Polis社会の盛衰
何と言いましても、学校の教科書には「ギリシアといえばPolis(ポリス)、Polisといえばギリシア」とでも言いたいかの様に記載されております。Athenae(アテナイ)とSparta(スパルタ)との、仁義なきバトルは有名でございますれば。 今回からは、そのPolisが登場いたします。 a;「ギリシア史の暗黒時代」(The Dark Age) 古典ギリシアともいいます。前回といささか重複しますが、時はB.C.2000年頃、印欧語族の一派とみられるギリシア人の祖先が、ペロポネソス半島を南下し始めます。 第一波としてAeorians,Acheans,Eoniansの三種族があり、このひとつAcheansがミケーネで文明を発達させます。 第二波として、Doriansが南下を開始し、B.C.1200年にミケーネを根こそぎにし、文明のかけらは消えます。文字すら失われ、記録が無くなってしまった。 なにがあったか、わからない…ということで「暗黒時代」(The Dark Age)と言われております。別に、戦争ばっかだったというわけではなかったようです。 b;初期時代(The Archaic Age)B.C.800年~B.C.500年 この頃になると、ギリシア社会に、政治的な共同体の単位となるPolisつまり都市国家共同体が成立してまいります。都市が生まれ、単独で国家となっていくのです。Archaic Age…まさしく“始まり”の時代です。 神殿のある丘の周りにAgoraと呼ばれる公共広場ができ、そこで市民が集まり政治を論じます。さらにその周りに商店街や住宅街が広がる。これを一都市として、周辺の農村部をまとめ、都市共同体を構成する…これがPolisです。 ポリスは、あくまで都市共同体のため、戦争しても一つの王をいただいて統一される、ということが無かった。そのため、乱立状態となり、海抜3000mのオリュンポスの周辺に、三桁を数えるほどポリスが点在していたといわれます。 さて、彼らは共同体として、土地を共有しておりました。そのKleros(共有地)を、必要に応じて配分していくと…やがて不足してまいります。そこでさらに耕地を開発する。また不足する。…ということで、ポリスは近場の他人の土地を戦争で奪うよりも、海外へ土地を求めて雄飛することを選択します。 結果、海外に植民都市を構築していきます。これは、B.C.750年以降に活発化し、地中海沿岸から黒海沿岸にかけて植民都市が増加していったとされます。 しかし、植民都市の側でも、ある程度経済力が付いてくると、本国に従属せず独立していこうとする動きが始まるのでございます。 さて、ポリスでは、王制は早くに消え、貴族制が広まっておりました。 国家の大事たる戦争の際、従軍し、命を捨てられる者こそが参政権を有しておりました。 戦地に赴くため、重装備するには金銭が必要。多額の金銭を保有していた貴族が、政治を動かしていたのです。 ポリス間で、活発に物のやり取りが行われ始めると、商業が発達し、貨幣も普及してまいります。結果的に、市民の中産階級の中にも富をたくわえて、戦争の際には武装歩兵として従軍する者も現れ、貴族独占状態だった参政権を要求し始め、ポリス社会は大きな変動期を迎えたのでございます。
今回からは、ギリシアをみてまいりましょう。
先ずは、そのはじまりから…。 ⅰ;Aegean Civilization(B.C.3000~B.C.1200) まさしくエーゲ海を自在に行き来する民の時代でした。 起源は、B.C.3000年頃のCyclades文明といわれます。この頃の時代は、前期・後期に分けられます。 前期を Creta文明、後期をMycenae文明といったふうに。 前期の Creta文明ですが、これは現在のクレタ島を中心としておりました。Cunosos宮殿が今に遺されておりますが、宮殿の防壁がなかったという構造や、内部に壁画やオリーブの樽が多数遺されていたということから、この文明は海上貿易を主としていた国家であり、当時はたいへん平和で穏やかな時代であったといわれております。残念ながら、彼らは種族として何人であったのかは、今に至るも不明です。 B.C.1600年を最盛期として、B.C.2000年からB.C.1400年までの600年間、この文明は栄えました。 しかし、後期のMycenae文明の伸長によって衰退してゆきます。 Mycenae文明は、ペロポネソス半島(ぺろぽねそす…舌噛みません?)のミケーネを中心に発達しました。担い手たちはAcheans(アカイア人)といわれ、彼らは先進のCreta文明を模倣しつつも、その国家は城砦的王国を構築。Cunosos宮殿のそれとは異なり、強固な城壁をもつ城を目指しました。 現存する粘土板から、線文字を使用しており、税金の収入等を記帳していたとみられる記録が発見されております。 彼らは、今に至るギリシア人の祖先に位置しておりますが、オリエント風味の王を頭に頂き、オリエントのそれと似た官僚制機構を有した専制的小王国でありました。 エーゲ海の海上に浮かぶクレタ島の文明と、ペロポネソス半島のミケーネの文明は、やがて衝突を起こしたともいわれ、クレタの文明はB.C.1400年頃に終わりを迎え、さらにミケーネの文明も半島の北方から南下してきたDorians(ドーリア人)によって、その200年後には最期を迎えることとなりました…。 …こののち、ギリシアにはThe Dark Age暗黒時代が到来するのです…。 …いささか、暗鬱な口調ですが、このクレタやミケーネで文明が栄えた頃は、お隣小アジア(北東エーゲ海域)でもトロイア文明が健在でした。そう、ギリシア神話で名のあるトロイアです。 そもそも、キュクラデスのものがはじまりであり、継いでトロイアが栄え、クレタに譲り、ミケーネが猖獗を極めたのです。 上述のように、キュクラデス、クレタは、海上の島に栄えたので、元来開放的で、平和を志向する文化的な性質のものだったともいわれます。宮殿遺跡にみられる壁画装飾、下水道を備え水洗式お手水を構える、快適な生活様式は、周辺の町々でも同様であったらしく、民の生活はなかなかに清潔であったようです。 ミケーネもそうですが、この頃のエーゲ海周辺の文明は、よくもわるくもオリエントとギリシアの両方の文明をもつ、ある意味で活気があった時期といえるのかもしれません。 ただ、この時期には、一時期オリエントを統一したヒッタイトが滅亡、新エジプト王国と呼ばれる時期のエジプト地域も、「海の民」としか記録に残っていない勢力に脅かされ弱体化していたとのこと。民族の移動によるものなのか、それとも政体の変わり目だったのか…。 (08/04/14 一部修正)
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